瀬戸内 開 blog 〜面白き事もなき世を面白く〜

小説家 瀬戸内開のブログ。「新米オジン・クラーク救急医療現場を行く」 文芸社より刊行。2016年4月、紀伊国屋・三省堂書店にて発売。

小説「オジン・クラーク救急医療現場を行く」いよいよ4月刊行!

 先週土曜日(2月27日)、「オジン・クラーク救急医療現場を行く」の製本版が届いた、いよいよ書店の店頭に並ぶ日が近付いてきた。素直に嬉しい、感激だ!!

 本来なら原稿を書き上げた9年前に出版されていたはずだった、当時はニュース報道各社が来る日も来る日も「救急患者の盥回し=悲惨な死」を取り上げ、「救命・救急医療現場」がまるで「悪の牙城」がごときメディア各局の攻撃に晒されていた。勿論その事故・事件の真相・実態はメディア各局の報道とは相反して、真の原因は「消防庁救急搬送体制」の安易な役所業務に起因したことのほうがはるかに重大だっと私は視た。

 この著書は、その当時の波乱に満ちた「消防庁、救命・救急患者搬送」と「救命・救急医療病院」そして「安易に救急病院に駆け込む患者達」との錯綜模様を、数年間その現場真近で注視してきた「オジン・クラーク」即ち、「瀬戸内 開」が目の前で直に見聞した記録である。

 後で知ったことだが丁度この同じ時期、佐賀県庁医務課に勤務する「円城寺雄介」という職員が私と同じような危機感を募らせ、「救命・救急患者の盥回し=悲惨な死」の具体的解決策を模索していたという事実を「TBSテレビ:夢の扉」という放映番組で知った。役人社会では「氏」のような活躍はほぼ祀り去られるのが常道だが、「氏」は「艱難辛苦・血と涙」を乗り越えて「氏」の目指す解決策に辿り着いたようだ。驚きだ!一度氏を訪ねこれからの私を見つけたい。

瀬戸内 開

f:id:setouchikai:20160411001444j:plain

「社会人社交クラブ・メイツ」で知った【スポーツを楽しむ!】

 私は過去、武道を中心とした格闘技を小学校5年生から大学の1年生まで「ただ勝つ!」だけを目標に修練してきた。大学では「松濤館流空手部」に入部し、4年生まで修練を積み重ねるつもりでいたが、どういう訳か一年の3学期早々に「退部勧告者数名のなかに私の名が掲示」され、未練たらたら退部勧告理由を問いただしたところ「素行が相応しくない」との一言で残留が認められず、止む無く空手部を退かざるをえなかった。「素行不良」には思い当たる節は何もなかったが、当時私は通学時に「白鼻緒の高下駄」をはいて通学をしていた。私は背が低く満員電車通学で周囲の通勤者の肩が顔に当たり、それを避ける為に「高下駄」をはいていた。然し「武道家として道」に外れた行為をした記憶はないと言いはったがそれでも許されることはなかった。

 そしてその後は何もすることが無くなり、致し方なく「勉学=殊に政治学」に身を委ねるしか道が見いだせなかった。

 そもそも私は小学校の5年生のとき、同級生や近隣の幼馴染・遊び仲間が多分遊び半分?で誘ってくれたんだろうなと記憶しているが、夜間の警察道場に連れていかれたのが始まりだった。警察道場は「剣道場」と「柔道場」に二分されていて、一方ではエイッ・ヤァー・トウーとチャンバラで竹刀がバシバシと叩かれ合い、他方ではウォリャ!ドタン・バタンと人の投げ合いが繰り広げられていた光景を覚えている。

 その前年であったが、近くの公園で「子ども相撲大会」が催され、その大会で私は「小結賞」を獲得したが、そのとき優勝の「大関賞」は「米俵一俵」であった。優勝者は6年の上級生で背丈・体格とも私よりは遥かに大きい体の持ち主であったが、私は「米俵一俵」が欲しくてその後は悔しい数日が面白くなかった。

 私の体形はややズングリㇺックリで背丈が低く、教室での席順は常に一番前の席であった(この席順は中学・高校を卒業するまで一度も変わることはなかった)。因みに高校3年時まで身長:153センチ・体重:58キロといった小兵を嘆いて生きて来た。

 警察道場での一・二か月は殆どが遊び半分・チバケリ合であったが、或る時「勝ちゃん」と言う同じ5年生が私とほぼ同じ体格・体形で大人の警察官を「ボン・ボン」と【背負い投げ】という技で投げ倒している姿に気付き、思わず「えっ、何で?」とそれからは「勝ちゃん」の動きをつぶさに見守り、直に「勝ちゃん」にも教えを請い、「大人を投げられる!大人に勝てるんだ!」といった快感・感動から警察道場への真剣な通い稽古に熱が入りだした。勿論強い有段者には勝てなかったが、6年の頃には新米警察官の何人かは小学生の分際でバッタンバッタンと投げ倒していた。

 中学に進学してそこに「柔道部」があるのを知り、私は直ちに入部を志願して改めて柔道の基本からの修練をやり直した。勿論部活後の警察道場通いは引き続き欠かさずで、学業・部活・警察道場通いの中学生活が始まった次第である。私は見る見る間に強くなっていった、自分でも不思議であった。中学一年の三学期頃には二年生とはほぼ同等以上・三年生とも負けたり勝つたりといった進歩を遂げていた。警察道場でも有段者に互角以上の戦いを繰り広げ、中学二年の広域全中学生柔道大会では「個人優勝」を果たし、小さな小兵が大男を次々投げ飛ばしたと新聞に掲載され、市の有名人に纏られた。 

 私には「父親」から唯一教えられた言葉があった「見取り稽古」と言う言葉だ、父は俗に言う将棋の「田舎初段」であった。「人の将棋を見て覚えなさい」で、父が私に将棋を教えるといったことは一度たりともなく、父と将棋をさしたことは何度となくあったが、こう打つ・こうさしなさいなどと教えられたことは全くなかったと記憶している。父との勝負はハンデ戦で「飛車・角・桂・香」を抜いての勝負であったが、それでも全く刃が立たなかった。

 この「見取り稽古の教え」は私の柔道の戦いの中で私を見違えるように強くしたと自負している。市の個人戦大会で優勝したときも、私は試合で対戦している選手達を見ていてこの選手双方には勝てる、この選手にも勝てると彼らの試合を見守っていて「イザ試合場面での戦い」がその時点で既に脳裏に刻まれていた。また一度も見たことのない選手でも、最初に組んだ瞬間でこの選手には勝てる、「うん、ちょっと強いかな!だが勝てそうだ」と一瞬の判断が出来た。

 高等学校に進学して一年生ですぐに「初段位」・二年生で「二段位」と山口県下で早くもNO1かNO2かと噂され、中国5県の大会で「身長193センチの二段位と153センチの私が対戦」した折も、会場の誰もが私がイチコロで投げられると想像していただろうが、私は彼との対戦を既に「脳裏戦」に築き上げており「合わせ技一本」で勝利を収め会場を沸かせた、山口県選抜の我が校は敗退したが、私個人は4戦全勝でこの大会も自分通りの柔道を完遂することが出来た。

 だがただ一度だけ、一度だけ後にも先にもない負け試合があった。私個人にとっても高校の柔道部にとっても最っとも大事な全国大会出場の決勝戦での敗退である。先にも記述した山口県で№1か№2かと噂されてきた二人の対決で私は見事にぶち投げられ、公式戦での初黒星を味わい、当然ながら私の負けで全国大会出場への望みも絶たれた。

 私は勉強があまり好きではなく家もさして裕福ではなかったことから大学進学は全く考えていなかったが、柔道部の部長が「中央大学」を受験するようにと両親に伝えたことで両親からも進学をせっつかれ、受験勉強もしていなくどうせ不合格だろうからと親の意を立てて受験だけは受けることにしたが、然し受験した結果は意に反して「合格」となり、ならばと「柔道部の門」を叩いたところ「柔道部」は小兵の私を見るなり「あぁ、ダメダメ!無理だ・無理だ!返れ帰れ!」と道場から追い出れてしまった。オランダの「ヘーシンク巨漢柔道家に神永・猪熊の両日本代表が2年連続で敗退」していた。「日本柔道界」が「木偶の棒を集めて柔道再建」をと考えだした初年度にあたり、153センチ・小兵、話にならんとの門前払いだった。

 「柔道を熟知した小兵・神業の魂」が炸裂した、「よしっ、お前らを一撃で倒してやる」と熟慮し「中央大学松濤館流空手部」の門を叩くことにした。「松濤館流空手」とは他大学の空手部諸流派とは一線を画した「一撃で相手を倒す」といつた「勝っ・倒す」を目指した唯一の武道であった。木偶の棒柔道家を蹴散らすにはもってこいの武道だと修練に励んだが、巻頭記述の通り退部を余儀なくされ敢え無く「魂」が消去った。

 大学一年の三学期から始めた「政治学」の勉強が面白くなり、二年・三年・四年と猛勉強が続き、新宿戸山ハイツに下宿していた頃、近隣の早稲田大学院生二人にかわいがられ彼らにも様々教えを受け、いつの間にか大学教授になろうとの道を模索し始めていた。だが、この道は結果として「父」の猛反対で退けられ、では政治家、じゃ弁護士・・・と希望を出したが全て断られ、「父」が急遽上京、勝手に地元代議士と相談して「しがないコッパ役人の端くれ」に押し込まれてしまった。武道の道を離れてからは、たまに「永田町ヤンチャーズ」と云う山口県人を主軸とした軟式野球に参加した以外にはその後、武道・格闘技・スポーツなどからは全く縁がなくなっていた。(永田町ヤンチャーズについてはいづれ別途記述を起こします)

 約30年間運動らしい運動や体を鍛えるなどとは無縁の歳月を過ごしてきたが、昨年3月「社会人サークル・メイツ」に参加しませんか!といった「広告」を目にした。記事には入会金無料・健全社会人サークル・スポーツなんでも・国内外旅行・温泉他趣味・娯楽多種多様etcとあった。

 私は意外と「孤」には耐えられる性質であったが、尚且つ集団とも何とか周囲に同調していけるといった両様の生き方が出来ていた。長らく「個」と言うか「孤」の生活に浸り馴染んで来ていてこの【メイツ】広告に接し、久々に集団との生業に気が高揚し高齢を顧みず参加してみようと決意した。72歳という高齢に多少の引け目はあったが、入会を許諾されて先ずは初夏の「天城スポーツ合宿」なるツアーに参戦した。ここ数十年体は動かしてこなかったが、社会人サークルのスポーツ合宿だ!往年の体の鍛えで何とかなるだろうと40人近くの男女のスポーツ・ツアーに身を投じた。

 ところがこの「メイツ・ツアー」天城の体育館に到着するなり、いきなり休憩もなく「ネットをはれ・卓球台を出せ・綱・ボールetc」とまるで学生合宿まがいの指示が飛び交い、えぇぇ!おっぉっ!社会人サークルのレジャー合宿じゃないのっ!と高をくくっていた私は度肝を抜かれてしまった。その後、参加メンバーは A・B・C・D の4組に組み分けされて私はD組に配置されたが、私は自身のツアー予想が想定外の展開に戸惑い、且つ新人といった参入者でドギマギ・ハラハラの体でみな皆に着いていくしかなく、情けない新米・老人姿を各競技で露呈してしまった。ただこの競技中、私を見ていたD組の「佐藤組長(私の息子位の青年であった)」が【爺!楽しみましょう、勝ち負けではありません!気楽に楽しんでください!】また【いつでも抜けて休憩してください!】の言葉を度々投げかけてくれ、私はようやく競技途中にそうだ“格闘技じゃないんだ”なんだ、俺は何をむきになって争っているんだと「佐藤組長」の掛け声で我に返り、この時以来「争いではない・勝ち負けではない、そう!楽しむんだ!」という事を「佐藤組長」から教えられた。

 私は前段で記述した通り、小学生の時から「勝つ」を目指して闘ってきた、そのベースは「いじめられた」だ、必ず強くなって見返す・やり返すだった!体は小さく転校生でよく集団・グループにコズかれ・脅されてきた。何時かきっとやり返してやる!が私の「魂に植え付けられ」、私に柔道の過酷で厳しい修練を積み重ねさせた。

 来月の誕生日を迎えると「メイツ一周年だ!」天城スポーツ合宿・下田イルカツアー・チームマリエン・渋卓・国立国分寺ゆるゆる・海釣りと卓球・ソフトボール・バトミントン・バレー・ゴルフ・温泉・海浜遊びetc、かれこれ30種類ちかくのスポーツやレジャー(全てアフターは歓談・飲み会セット)に参加しただろうか・・・楽しいく愉快で充実した「メイツ一年近くの日々」だった、そしてこれに輪をかけて素敵な「メイツ女性」の何人とも知り合え、【72際でメイツ入会して今や52歳位の年頃にまで若返ってしまった】。

 【メイツおそるべし】である!いや【あった】だったかな・・・!

「爺」こと瀬戸内 開

 

何だか来週は忙しいなぁ~!暦が全部埋まってる…≪爺こと瀬戸内 開のぼやき≫

日曜日:朝11時から「メイツ・テニス」が吉祥寺の井之頭公園わきのテニスコートで開催される。ここのメンバーには爺の気になる女性が何人か居てテニスは出来ないけど見学ってかたちで参加の予定だ。とは言え、気になるからと言ってどうなるわけでもないが…顔だけでも見ていたい!だが、若い彼女たちだ、72歳の爺に振り向いてくれるわけはない・・・プラトニックだ!つまんないのぉ~ (´;ω;`)ウゥゥ
月曜日:朝10時から高田馬場で新宿区社会福祉協議会の「子育て支援講座」の勉強会だ。ここでは爺お気に入りの東京女子医科大学病院の医師が講師でこの講義もはずせない。
火曜日:朝10時から新規に始まった東京医科歯科大・順天堂大学病院の「子育て支援講座」4回目が日程に入っているが、ここにも爺が誘った理知的なみめ麗しい女性が事務局にいる。
水曜日:朝10時から「川柳水曜会」・「ミマモ☆カフェ(子供の見守り0~3歳)」・「新宿区子育て支援講座」・そして夜は「メイツ・渋卓」と4連荘行事が連なっているが、「川柳水曜会」のメンバーだけが綾小路公麿の対象ご婦人方で、気は重いが人との縁で止む無く参加している。「昔はうら若き娘、いまは・・・!」と言ったご婦人方ばかりの会席で、爺はワザと「逆ナンパ 頬を寄せ合う 隅の席」・「老いてなお 若きむすめご 目が追いて」なんて句を選んで発表している、嫌味句だよね。
木曜日:14時半から地域巡回青色パトロールボランティアを請け負い、近隣小学校の女性PTA会長と防犯・子ども達下校時の見守り活動だ。
金曜日:朝10時から東京医科歯科大・順天堂大学病院の「子育て支援講座」5回目の日程だ。
土曜日:13時から東京都安心安全まちづくり課の「子どもの見守り講座」8回目の最終講座が予定されている、この講座は、町会・町会連合が「防犯・子どもの見守り」などで提案した「企画案」が都に承認されれば最高額300万円の補助金が支給されると言った講座で、単なる勉強会ではない。
 どういう訳か来週はこんな日程が詰んでしまった、憂鬱ではあるが熟すしかないだろう。厳しい!
瀬戸内 開

   

ペン・ネーム【瀬戸内 開】の名ずけ

 この名は私が生まれた「ふるさと」が瀬戸内海に面した風光明美な街であったという単純な理由から名ずけただけである。とは言えペン・ネームということから「瀬戸内 海」では無策と考え、「海」を【開】とした。だが、何故この【開】を選んだのかについて或るは思い入れがあった。読者の方はご存じよりと思われるが、「開高 健」という小説家がいて若くしてこの世を去ったが、ご近所の博識の奥方さんから以前「瀬戸内さんって開高 健さんにそっくり!」、と言われた事が頭の片隅に残っていて様々な“かい”読みの漢字から【開高 健」の頭文字【開】を選択した。私は当時「開高 健」の小説は既に何冊か読んでいて氏の顔も知っていたが、私自身は氏と似ているとは全く思ってもいなかった。氏は「釣りが好き」だったようで小説の随所に釣りのイラストを入れていたから、その奥方が「開高 健」の姿に釣り好きの私をすり合わせただけなのだろう。彼の奥方宅にも大漁に釣れた釣果を何度かおすそ分けした経緯があった。

「開高 健」の小説は健全で私は割と好きであったから何冊かは読んでいた。その上、氏に似ていると遥か昔に言われたその記憶が頭の何処かに蓄積されていて「ふと思い出し」、【瀬戸内 開:せとうち かい】とした、語呂も響きも良く気に入った次第である。

 

今年は猿年、と謂うと「見猿・言わ猿・聞か猿」と出て来るがこの「諺」はもう時代錯誤ですよ!

 戦乱のない日本をと天下統一を目指した「織田信長」が本能寺の変で「明智光秀」に討たれ、「豊臣秀吉」が一時後継者とはなったが、関ヶ原の合戦を経て最終的には「徳川家康」が天下を統一し、戦国の世を終焉させ太平の世を創造した。

 とは言え天下を平穏に治めるには「金」がいる、現代でいう「税金」である。この時代ではその「金」が「米」であった。そして「米」は農民が作り徳川家に収める仕組みが造られた。

 農民が「米」を収めることで天下泰平が維持されるといった世が創られた訳であるが、その農民が平穏に「米」を作り続け徳川家に敵意を抱かないようにとして「士・農・工・商・エタ・非人」といった階層制度を制定し、尚且つ「百姓は生かさぬように、殺さぬように」或いは「見ざる・言わざる・聞かざる」などと、天下を統治している徳川家に反旗を翻さないような統治機構・諺・慣わしなどを様々と駆使してきた。

 かの日光東照宮にある

「🙈・🙊・🙉(見ざる・言わざる・聞かざる)」

 がまさにそれでした、お上の不正・不都合には係わらないように、「長いものには巻かれろ」と躾けられてきました。そして明治維新新政府もこの慣わしを上手く活用し政治の安定化に利用してきたきらいが有りました。

 ですが、世は既に世界を相手に動いている世情です!地球儀的世界観で物事を、それも瞬時の判断が必要な時代に突入しています。

「何でもかんでもよ~く、よく見よう!」

「兎に角、思っていることはとことん言おう!」

「何でも聞こう、聞きまくろう!」

 と「見ざる・言わざる・聞かざる」の真逆を駆使しないと「地球儀・世界の流れ」についていけない時代です。

 日本の古き良き伝統・文化・風習は生かすところは生かし、世界との交流のなかでうまく使い分けをし、相手・相手国・相手人種・相手宗教etcを見極め、我が日本国の存在を世界に見せつけられる一人ひとりであって欲しいものと考える。

瀬戸内 開

 

18歳、ふみこのまち女子大学生:私も「小説」書いています!

 子育てボランティア【子どもの町をつくろう(昨年の夏休みは「ミニ・ミュウヘンの町造り」、一昨年は「お化けの町造り」)DIY】(代表さかたともえ)の場面で72歳の爺と18歳の女子大生が偶然出く合わせた。

 ボランティアには爺も生徒・学生・子ども達の隔たりは全くない、皆同列だ!

 「子どもの町を作ろう」と朝から午後遅くまでみな皆が子供たちと共にトンテンカン・トンテンカンと町作りに精を出している。

 この場で爺は子供たちにわりと人気を博している、代表が“何で爺が子供たちに好かれるのか訳わかんない”としょちゅう意味不明なボヤキを発するくらいだ。

 だが代表のボヤキは兎も角、爺にはその理由はちゃんと分かつている。

 それは3歳のその子にはその子の癖や技量を見てその子に合わせたやりかたを、5歳・6歳にはその子を見てのやり方を、子ども子どもに合わせてやり方を変えて、その子が喜びを感じる、その子が続けたくなる方向に合わせて共に歩みを合わせているからである。子ども達は皆一様ではない、得意も不得意もある、その子に合わせればみな皆出来るようになる、そしてその子たちは歓声と満面の笑みで爺とハイタッチだ。爺はそんな子ども達との付き合いを心掛けている。そしてその結果として其処にいる子ども達が懐いてきてくれている。そんなことで子ども達には目を配り、その場にいる一人一人を注意して見ているが、そこに応援で来てくれている高校生や大学生のボランティアさんとは殆ど会話や交流がない。

 そんな環境下で或る日の作業中、爺が「書き下ろし」を小説にするかも知れないとついつい口を滑らせたところ、それまで口を聞いたこともない女の子が「私も小説を書いています!どんな小説を書いているのですか?一度読ませてください・・・」と爺に声を掛け接近してきた。

 18歳、ふみこのまち女子大学生、遠山公子と名のる子であった。

 此のことが縁でこれを機にラインの行き来をするようになったが、この子の小説が「メルヘン」で且つなかなか奥深い、爺は男で体育会系育ちだったから「愛だの恋だの出産・赤ちゃん」などと言う女性の生きざまの部分は残念ながら全く理解の範疇外だったが、物語の流れはほぼ理解できた。男子には考えられないこと、思いもよらないことが随所にあったが、女子には宿命として子を宿す・出産するといった覚悟・思いが既に少女のうちから培われているといったことが解らず、彼女の小説を読み込んでいって初めて理解するに至った。このことは男女の違いなのか、育ち・生きざまの違いなのかは爺には不可解事項である。

 だがこの「メルヘン」物語ちょっと感激しましたね!お勧めです・・・

  彼女の書き物を紹介します。 題名は【ーふみこのみやこー】といいます。

          ≪      https://fumikonomiyako.amebaownd.com/  ≫

是非検索を宜しくお願い申します!! 18歳の子とはちょっと思えないかも? 

瀬戸内 開