瀬戸内 開 blog 〜面白き事もなき世を面白く〜

小説家 瀬戸内開のブログ。「新米オジン・クラーク救急医療現場を行く」 文芸社より刊行。2016年4月、紀伊国屋・三省堂書店にて発売。

何故、出版!ど素人が初めての[ 書 き 物 ] =末期癌余命10ヶ月宣告後の数奇な運命が=

 

         = ドキュメント:「新米オジン・クラーク救急医療現場を行く」を

                         世に問うこととなった摩訶不思議な経緯=

      ≪ 発端、急な送別会が持ち上がる!そして飲み過ぎ… ≫

 この書き物、小説として来春の節分の頃には紀伊国屋三省堂書店他の店頭に並ぶこととなったが(文芸社出版約定書)、当初私は、小説を書こうとも小説化しようなどとも全く考えていなかった。そもそも「書き物」を書こうといった考えすらがなかった。

 と或る日の何処にでもあっただろう「細やかな送別の宴」が起爆し、私を数奇な運命変転の道へと導いていった。以下に運命の変転から小説化に至った経緯を記したい。

 「この書き物」は既に9年前には書きあがっていたが、今日までの長い年月間、私の狭い書架の片隅に眠っていた。それが昨年の初秋の頃、或る女性の目に触れ・肩を叩かれたのをキッカケに「この書き物」は何だか訳の解らない流れに投げられ、木の葉のように流がされてついつい小説出版という処に流れ着いてしまった。

 「この書き物」が「書き物」として纏まった経緯がまた実に奇妙な展開の決果だが、以下に順次時系列に従って記述していきたい。

 なお、経過説明は所々やや長くなるが、転落・変転・仰天と多分読者の方々には【馬鹿な!そんな事有り得る訳がないといった「瀑布落下・激流・急流そして静かな流れを経て大海原へ」の「枯れ葉」の行方・実態ドキュメント】故、暫くご容赦願いたい。

 事の始まりは平成16年2月下旬の出来事からである。そう、11年以上も前に起こった事柄だ、もう私にとっても昔話になってしまった感がある。

 久々に以前さんざん世話になった会社社長を訪ねた処、その会社に出入りしていた美容室の店主が高知に転居するとのことで、急遽その場で送別会を昼日中から催すことが決まり、近所の蕎麦屋に落ち着き旧知の仲間を呼び集めつつ小宴会が始まった。3人からの小宴会が5人・7人と三々五々お仲間が参集し、2次会のすし屋では11人、3次会のカラオケ店では13人に膨れあがり午後7時頃にはドンちゃん騒ぎに発展していったが、宴は更にスナック、バァーへと展開、漸く終電間際にお開きとなった。

かれこれ12時間、食べ・飲み・しゃべくり・喚きの大騒ぎで飲んだの食べたの何の、流石の私も酔っぱらってのふらふら帰りとは相成った。

      ≪ 二日酔いか?隣のクリ二ックへ、いきなり入院勧告へ ≫

 翌日は当然ながら頭はズキズキ・体は重いで典型的な二日酔い症状であった。結局この日は一日中床から抜け出ることが出来ず更に翌朝を迎えたが、体は前日に引き続き重く起き上がろうという気すらおきなかった。

前日から妻は“飲み過ぎだの・若くはないんだからだの・病院に行けだの…”と傍らで煩く喋り捲つていたが、この日も前日の言葉を繰り返し々々浴びせ・被せた挙句に「必ず病院に行く」との私の言辞をとって所用に出掛けた。

 午後になって漸く渋々と隣のクリ二ックを尋ねたが、ここから先が私にとって【青天の霹靂】へと展開していった。

ドクターの「如何しました?」の問いにこの二日間半の経緯を説明したところ「尿の検査をしましょう」の後「血液検査をさせて下さい」に至り、明日朝一番でもう一度来てくださいとの継続診察を言い渡された。

そしてその翌朝いきなり「エコー検査をします」と言われ、生まれて以来61歳にして始めて「エコー検査」なるものを受診したが、その後のドクターの一言にびっくり仰天してしまった。

「瀬戸内さん、入院できますか?」ときた、何を言われているのかチンプンカンプン? 「えっ、二日酔いくらいで入院ですか?」の私の問いかけに「精密検査が必要です、今日・明日中の検査入院が避けられません!」とのドクターの厳しい表情に「あぁぁっ、俺って二日酔いじゃないんだ・・・」と暫く沈思黙考の後「解りました先生、入院します!」と覚悟を伝え、ドクターの指示のままに「医師紹介状を受け取り」翌日、東京女子医科大学病院へと赴いた。

    ≪東京女子医科大学病院へ検査入院、そして末期癌・余命10数ヶ月

                を宣告、 えっ!俺って死ぬの・・・ ≫

 この世に生を得て61年、病気・病院とは全く無縁の私だったが、検査入院と言う9日間を色々・様々な諸検査を施され、運命の3月9日、親族・近しい親戚縁者の同席を求められ

いきなり「病名は【原発性肝臓癌】と言いまして既に末期の段階です、癌細胞が5㎝大・3㎝大他肝臓のほぼ全域に拡散しており現在の医術では手術の手立てがありません!当医院が今患者さんに出来ることは、大腿部の血管から肝臓へ直接【抗がん剤を打ち込むという化学療法】以外には治療の方途が見出せません」また「この治療を施し続けたとしても生存の確率は凡そ10数ヶ月でしょう!」ときた。

 ところが此のとき癌患者と言われ余命10数ヶ月を宣告された当の私は、不謹慎であったかも知れないが、目の前の二人の医師に「はぁはぁ~ん、この人達何言ってるんだ!」と他人事のように医師たちの説明を聞いていた。

というのもまだ当時の医療現場では「癌告知」は近親の親族には教えても「当人」にはひた隠しに隠し続けてきた時勢であったからだ。数年前に父の癌のときもそうであった、聡明な父であったから隠しても父は解っていると思いながらも医師の指示に従い「ウソ」を通し続けてきた。辛い悲しい父親への「うそ」だった。それは時代・時勢がそういう世の中だったからだ。

 ただこの場で困ったのは脇の妻や近親がポタポタと涙を流しながら医師の説明に聞き入っている姿に気付いた瞬間だった。「アカン、此処は俺も落ち込んだ振りをしなければ…と急遽嘆き悲しむ患者の演技をはじめざるを得ず、声調も潤わせてどうすれば生き延びれるのでしょうなどと役者紛いを演じて苦しいその場を約2時間近くインチキ演技でやり過ごすはめとなった。

 だがその診断結果で本格的治療入院生活が始まった次第だが、その3日目だつたか・4日目だったかに「おやっ?」と自身に気付いた異変があった・・・あれっ!体重が1日に1キロ減っている?何だこれと翌日の体重を見てみるとやはり更に1キロ減っていることに気づいた、その翌日・その翌々日も1キロずつ減っていった。≪

 決果は10日間の体重チェツクで11キロの体重減少を確認することとなり、「あっ医者の言ったことは本当だったんだ!」と漸くこの時点に至って「末期肝臓癌・余命10数ヶ月」を認識・理解・覚悟し、そうか「癌細胞に身を滅ぼされるか」と渋々認めざるを得ず、【瀬戸内 開、三途の川を渡りました!】との突然の「黒い縁取り一枚の告別通知では男児一匹と言えど仁義に悖る行為」と反省し、今日まで私への指導・支援を惜しまず育て助けて頂いた先人・諸先輩・妻・縁者に対して厚誼・御礼の挨拶状をしたためる決意・決心をした次第である。

        ≪ 死を決心・覚悟を決める ≫

(後日談になるが、ただ此のときの離別挨拶状は、死に損なって数年後「何だ瀬戸内?お前は何年か前に死んだことになっている筈だが・・・」といった生き恥を晒す証拠文となってのお笑い談が遠い故郷辺りで流布されていたらしい)

 ただ、此処で申し上げて置きたい「一語」、どうしても伝え置きたい男子としての「一語」が有って次に一文を追加したい。

 それは「癌に犯され身を滅ぼされるのか…よし、仕方ない癌にやられてやろう!」との決断・覚悟の背景には、私が「人生の一時期・瞬時ではあったかも知れない十数年間、私は【男児として納得のいく仕事を為してきた】させてもらえた」という社会正義・国家貢献への満足感が「そうか、死ぬのなら已むを得ない、良し、いいだろう癌に殺されてやろう!」との決断を容易にさせた【嘗ての生き様、男児納得の十数年が】があったからである。

                        誤解のないように更に一文を添えます。

 命永らえたいといった願望は世の誰しもの人と同様、私も並みの人以上に生に拘って生きてきました、死にたくない!何時までも生き永らえていたい、当たり前です、ただ、癌に勝てない、敗けると結論が出た以上は悶えず・足搔かず死を受け入れようとした成り行きに従ったまででした。

 ≪ 運命転換の珍事、訳の解らない輩からの誘いが救急病院当直事務員へ? ≫

 処が、死を覚悟し明日の無いもんもんたる入院の日々を過ごしていた或る日、突然トンデモナイ輩が入院病室に飛び込んできた。「おいっ瀬戸内、助けてくれお前でないと出来ない仕事がある!・・・とのいきなりの第一語がこの浴びせ言葉だった。「なぬっ、助けてくれだと馬鹿野郎!・・・助けてくれはこっちの方だ、こちとら末期癌で余命10数ヶ月と宣告の身だ、何をぬかしやがる、さっさと帰りやがれ!と返すと「我みたいな奴が【癌くらい】で死ぬわけがはない、兎に角俺の相談にのってくれ!」といとも簡単に切り返してきた。

この輩長年の付き合いで俺より8歳も年上で性格は悪くないのだが何しろ日常が自分本位、頼みごとだろうが何だろうが相手のことはお構いなしの御仁である。

オール癌患者12人・大部屋での突飛な見舞客と患者間の通常では有り得ないこの会話のやり取り、他の入院患者達がこの会話をどう聞いたことだろうか・・・みんな死にたくない、生き永らえたいと毎日が苦渋・苦悶の入院患者達である。

こんな病室の空気も読めない・同室患者の胸の内も解さない常識外れと言うか傍若無人な輩、子の御仁を兎に角即刻にでも退散させないとと慌てた私はナースコールで看護師を呼び此の見舞客を追い返させた。だがそんな輩である、その後2度・3度と押しかけ、執拗に「助けてくれ瀬戸内、瀬戸内!お前にしか出来ないことだ」と繰り返し・繰り返し迫ってきた。

 そんな或る日、入院病室の独りが私に質問をして来た「瀬戸内さん、貴方は本当に癌ですか?どうしてそんなに大らかなんですか?」と、その問いかけには返答に困った。

これまでにも何人かの同室の入院患者から幾つかの悩みや質問を受けてはきたが、私はどの患者にも助言めいた言葉は出せず、「私は此処に居る限りは医師たちの施術・看護指導に任せて寿命を待つしか方法論を見出せません」と応えるばかりであった。

 入院してから約1ヶ月後の3月24日一時帰宅を許され自宅に帰えされたが、私はこの一時帰宅措置でかえって「死への覚悟」が更に強まった。そして偶然にもこの日、高校同期の関東地区同窓会が開催されており、これはまさに「お別れ会に出ろ!」との啓示だと受け止め、そこに参集していた60名近くの皆々に「多分来季のこの会合には出れないだろう!色々・様々有難う・・・」と別れを告げてその場を辞した。一つ肩の荷が降ろせて気が大いに楽になったその日の記憶が今も懐かしい。

    ≪ ひょっとしたら癌細胞が怖気始めたか?飲酒・喫煙の再開 ≫

 翌月の初日には再入院が待っていたが、またまた例の輩が自宅にまで押しかけて来、執拗にくいさがり「何とかしてくれ!々々瀬戸内、お前だけが頼りだ、お前にしか出来ない仕事だと散々拝む頼む・土下座する・・・」で止む無く「じゃちょっと考えてみるよ!」といい加減に答えてようやく帰ってもらった。

 この自宅待機中にもう一つ別案件の相談事を頼まれていた、学生の頃からの下宿仲間で嘗て中堅ゼネコンの設計部長だった仲間だ。相談案件は省略するがこの案件解決のためにやはり私の嘗ての仕事仲間であった自由民主党本部政務調査会の「I氏」と共同歩調での助力を依頼してきていたが、その場所が新大久保駅脇の韓国料理店であった。此処で入院後約一ヶ月振りの久々の飲酒・喫煙が楽しめたわけだが(勿論酒・煙草ともドクターストップの身だ)、此のときの生ビールが煙草の一服々々が何と旨かったことか・安らぎを与えてくれたことか、兎に角その時の私の身、五臓六腑にしみわたった。

       ≪ そしてこの日を機に飲酒・喫煙を再開した! ≫ 

理由は簡単な事だ、「どうせ俺は癌細胞にやられるんだ!いづれ死ぬのならこんな旨い酒・こんな上手い一服死ぬまで楽しんでやろう」と決断しただけの事だった。やけくそと言えばその通りだったかも知れない・・・。

ただこの飲酒・喫煙再開に幸いだった情況が入院先の東京女子医科大学病院にはあった、それはこの病院と私の居住地が隣接していたことだ。通常では入院生活とは言ってもつまるところは、医師・看護師の管理下で起床から消灯までの間をのんべんだらりと生かされているだけのことである。勿論医師・看護師による定期の時間諸チェックは色々組まれていてはいるが、このチェックさえうまくクリアすれば頻繁に我が家に帰る事が可能であったし、事実私はこれを毎日やってきた。(だから近隣の人達は私が癌で3年間も入院していたことなど誰一人として知る人はいなかった)と言うことは入院中毎日私は酒・煙草を隠れて楽しんでいたということでもある。

 ≪ えっ、末期癌の入院患者が病院側の立場で患者の世話をする?何だそれ! ≫

一週間の自宅療養?生活が終わって4月1日再入院となったが、或る夜なかなか寝付けなくて“死ぬんだよなぁ~俺って10月か11月・12月頃には癌に殺られてるんだよなぁ・・・まぁ先輩・縁者には全て告別挨拶状は出し終えたし、身辺整理・妻・子へのその後のことどもも伝え・したため終えたし一応思い残すことはないよなぁ…”と眠れぬままに思いを廻らせているうちにふと「例の輩の助けてくれ!」をふいに思い出した。“助けてくれって言ったって、俺って死ぬんだからなぁ…助けられないよなぁ~ただ手助けのヒントとか裏ワザくらいは教えられるのかなぁ”と思いあぐねた挙句、「よっしゃ!どうせ死ぬんだ、死ぬ前に誰かでも人助けが出来るのなら試してみるか…」と当の病院長に合ってみることにした。

   ≪ 瀬戸内さん!この病院を助けてくれ、院長伏してお願いしたい ≫

気に食わない輩だが次の一時退院後に「院長に合ってもいい旨を伝え、4月半ば頃に世田谷区内の救急病院に案内されて院長・看護婦長と面接・面談となった。当の私は「例の輩が」院長や看護婦長に私をどう説明しているのかは知らないが、私としては幾らなんでも東京都の救急病院としての認定を受け、世田谷区で「れつきとした病院」を営んでいる病院長や看護婦長が「余命幾ばくもない末期癌患者」を「頼む!うちに来てくれ」などとは言うはずもないと「高をくくって」の面接であったが、その2日後「院長が是非にも瀬戸内さんにお願いしたい!」との返答を受けとるに至り、「えっ、この病院そんなに病んでいるのか」と仰天あっけにとられてしまった。

≪ 信じられない展開! 病院・医療事務など何ら知らない全くのど素人が何んで救急             病院の当直医療事務員なんかになれるの・・・怪しくない? ≫       

だが結局この院長の「頼む宜しく!」を受諾し、私は5月から定期入院治療明け毎の何日かを当直医療事務員としてこの救急病院に収まることとなった次第である。

以上で前段を終わります。

 次節からは「ニチイ学館」派遣職員として救急病院を派遣回しされたことから「書き下ろし」に至る直接的キツカケを記述していくこととなります。

             ≪ 後   段 ≫

     =院長の気まぐれからニチイ学館医療事務講座の受講生へ=

 世田谷救急外科病院の当直医療事務員として勤務し始めて約半年後の年末、漸く院内事情・救急隊搬送患者・直来救急患者などの応対にも慣れ、医療事務の業務内容もほぼ把握出来てきたかなと平穏な当直勤務を熟していたところ、突然、院長から“瀬戸内さん!医療事務の専門学校で勉強する気はないか?費用は私が出す”と声を掛けられた。“えっ私がですか!?・・・事務長や事務のベテラン職員の方達が何人もおられるじゃないですか?”と不審そうに院長に言葉を返しましたが、この時期の院長は何がどうしたことか私をとことん信用してきて院長自身の個人的悩みや不満・病院経営上の問題点・愚痴etcを私の当直明け時間に合わせて何だかんだと言ってくるようになっていました。

 そこには個人経営病院の孤独な病院長の姿が見え隠れしていました。このことは他の一般企業でもいえることですが、社員・従業員から代表者の見解・命令などに異論・反論・オブジェクションが全くないといったことからの経営者トップの葛籐です。

 私が勤務を初めて数ヶ月後頃のことでしたが、院長から病院改革のと或る質問に“院長が本心改革をお望みなら院長自身が改めるべきことを改め、しかる後に看護長・事務長・看護師・準看護師・職員・ヘルパー全員に自由に思いのままを意見具申してもらう場を作らなければ無理でしょう”と答えたことがきっかけで、その後次々に院長から意見具申を求められるようになってしまいました。

そんな経緯の挙句の果てがニチイ学館「医療事務専門講座受講」へと至った次第です。

 世田谷救急外科病院では当時のカルテはまだ「手書きカルテ」でした。この時期、国公立病院や大学・総合病院などのほとんど全ての基幹病院では既に「電子カルテ」化が導入されており、地域の個人病院や町医者・クリ二ックなどが僅かに「手書きカルテ」に甘んじているといった現状でした。

  ≪ パソコン時代の落ちこぼれが還暦過ぎてのよちよちパソコン手習い ≫

 このような医療事情下での医療事務員養成講座でしたから当然ながら講座の各科ではそのほとんどが「パソコン」を使用しての講座内容でした。生まれて初めてのパソコン学習が62歳を目前にして始まった次第でしたが、何しろ「パソコン」の「パの字も知らなかった老人」が医療の専門知識に加えてパソコン操作のイ・ロ・ハからのスタートとなり、とてもではないが全く付いてゆけない学習内容であった。院長からの申し出をとことん断ればと何度も悔やんだが、受講後のこの段階では最早なんともならず補修・補講を何度も繰り返し、2ヶ月後に漸く修了証書を手にすることが出来た。

 だが病院に戻ると其処はいまだ「手書きカルテ」の救急外科病院である、苦心惨憺たる思いで学習を積んできたがその成果を生かす場は何処にもなかった。いい勉強をさせてもらった、身に余る光栄であったが折角の新知識・力量が発揮できない病院事情では残念至極・無念の極みであった。しかし病院改革が進まない以上は旧来の当直事務を継続してゆくしか手立てはなかった。

 院長がニチイ学館医療事務養成講座に派遣した職員は、私と一度離職し再採用された年配看護師の二人であったが、敢えて新人を選んだことでマンネリ化業務に埋もれ危機感も改革意識も失ってきた病院職員に「カツ」を入れ、「解雇されるかもしれない」といった危機意識を発奮させんとした目論みがあったのではと私には推理された。然しながらこの様な思惑が2・3ヶ月間で職員間に浸透・理解されるなんてことは通常では起こり得ずその成果はなお時の経過を待つほかなかったであろう。

     ≪ ある日突然のこと、ニチイ学館から就職案内が届く ≫ 

 ところがそうこうしていた夏場のこと「ニチイ学館」から救急病院派遣職の案内が舞い込んできた、それもちょつとした大学付属の大病院であった。63歳の老人にこんな就職案内が来るのか?と半信半疑の体で履歴書を持参し面接に赴いたところ、何とこれが二つ返事で採用と決まってしまった。多分、僅か一年ちょっとの実積ではあったが世田谷救急外科病院での当直業務が功を奏したのであろうと幸いな好機会が届けられた。

    ≪ パソコン未習熟から受付業務停止・配置転換の憂き目 ≫

  とはいえ、世田谷救急外科病院との掛け持ち勤務である、尚且つ大学病院での当直受付業務となればパソコンによる電子カルテを来院患者の目の前で瞬時に作成するなど、緊急にパソコン操作に習熟しなければならない急務にアタフタの日々が続いた。当直受付の席に着く度毎に冷や汗業務の連続で特に「二重カルテの作成は厳禁事項」と督励されていたので細心の注意を払いつつパソコン操作に立ち向かっていった。受付の諸先輩は当然ながらパソコン操作はベテラン揃いで同僚の受付バイト達もそのほとんどが医学生でパソコン操作はお手の物といった仲間ばかりであった。ところが私は「二重カルテ厳禁」が常に頭の片隅にあり、“初診です、初めて来ました”と言われるたびにより慎重なパソコン操作と確認・確認を重ねるあまりに「そこっ、新人さん!患者さん行列だよ」と後ろのベテラン諸氏から頻繁にハッパが飛び交い、その声で増々動揺して挙句の果てには受付席を交代させられるといった勤務の日が何日か続いた。

   ≪ 慌ててパソコン機器一式を購入、パソコン操作を学習するも遅々として進まず、 一般家庭用のパソコンと病院設置のパソコンは大違いであった ≫

当初受付業務を指示されて何回か見習い受付での実習を受けたが、この時点で「あっ、これはパソコンを毎日叩かねばとてもついていけない、こんな腕前では患者の方々に迷惑がかかるばかりだ」と慌ててパソコンを購入し自宅での自習に励んだが、素人の悲しさだが一般家庭用のパソコンと病院に設置されているパソコンは全く違うということを知らなかったことだ。それは病院のパソコンには病院専用の専門的特別なソフトが既に内蔵されており同じキーボードでも家庭用とでは出てくるデーターがまるっきし違っていた。従っていくら自宅でキーボードに慣れても病院の機器には通用せず、決果は現場でのパソコン習熟が間に合わず配置転換・解職の憂き目にと至ってしまった。

 そしてこのことが私の心に大きなキズを抉り、「よっし!奴らに舐められてたまるか、馬鹿にしゃがって・・・」と反発・発奮、ここからパソコンの猛練習に挑んだ次第であった。

 だが、とはいってもただやたらキーボードとにらめっこをしているだけで何をどうすればいいのか暫くは思案に暮れるばかりであった。何かしなければと思いつつも約一週間近くパソコンとは向き合えなかったが、ある日ふと、あっそうだ!世田谷病院だと思いついた。病院事情や救急外来の模様など嘗ての日々を思い出しつつキーを叩けば何とかなるかもと閃いた。

       ≪ あっという間にキーボードと友達に! ≫

 自分でも驚いた、世田谷病院での過去の日々が次々に思い浮かび、いつの間にか数日のうちに左右の指が勝手にキーボードと遊んでいた。そして気が付くと2・3ヶ月後には百頁近くの文章が出来上がっていた。この間には面白くて熱中し、入院や病院勤務のない日には徹夜でキーを叩きまくった日も何日かあったぐらいである。

    ≪ 救急病院:救命・救急医療ブースの職場に派遣される ≫

          ー そして書下ろしのほぼ完成 ー

 先に派遣された大学付属病院を3ヶ月の雇用で解雇され、その2ヶ月後の年末に今度は都心の「ER」にまさかの派遣要請がニチイ学館からやって来た、再びの驚きだ!自らの未熟が原因で失職した高齢者に、それも雇用情勢が不安定なこの時期に再就職の案内が来るとはと「キツネにつままれた思いで」半信半疑の体で面接に赴いたところ、結果的には採用と決まりその後約3年間をこの病院の「救命・救急医療ブース」で働かさせて貰うこととなった。更にその後一時的に成城の「国立成育医療センター」に派遣されたが、この時期、既にパソコンとは親友以上の関係を築きあげており、日々・日常を事あるごとに文章化し、結果として「この書き物」の全容は世田谷救急外科病院、ER救命・救急医療ブースの見聞でほぼ完結を成し遂げていた。

      ≪ 出版社に投稿も家族の猛反対で9年間埃まみれに ≫

 翌年のある日、偶然に産経新聞で「あなたの書き物を小説にしませんか!」といった広告欄に出くわし、「あぁそういえば去年のあの書き物って世間に通用するものかな、俺の文章力ってどんなものなんだろう?」とふと自分を試したくなって「文芸社」という出版社に軽い気持ちで投稿したのが事の始まりでした。この最初の投稿が9年前のことでしたが、ただ新聞広告欄では「自費出版」といった記載に気が付かず、「文芸社」からの回答が破格の評価と出版費用165万円といった内容で、この回答書に家族の全員が「お父さん・おやじ!これ騙しだよ、止めておけ」って家内での結論が纏まり私の書架の片隅で9年間の埃をかぶって忘れ去られておりました。

           ≪ でわなぜ今出版の運びに ≫

 東京女子医大病院で末期癌、余命十数ヶ月を宣告され一時期死を覚悟し、身辺整理を全て済ませて当てのない闘病生活を送っていたが、その後十数ヶ月を過ぎても・1年・2年を過ぎても「死」が訪れず、退屈な入院生活の中院内をうろちょろしている折に「ファミリーサポート」講習の案内に気がつき、「死」なないのならちょっとばかり「ボランティア」でお返しをするかと軽い気持ちでその講習を受け完了をした。だがその後も「死」の気配がなく「二葉乳児院・保育園のショートステイ講習、新宿区ファミリーサポート、NPOゆったり~の、ミ☆ママモーレ、ホームスタート二葉」等などと次々に「子育て支援・乳幼児の見守り」活動に参加していったなか、数年前のクリスマスプレゼント交換会で月並みな品よりはと「書下ろしの一部」をとばら撒いたところ、一人のお母さんの目に留まり出版を促されてこの度の運びとなった次第であります。文章力・内容についてはまだまだ稚拙・幼稚で人様に見せられるものではありませんが、取り敢えず一度世に出すからには様々な批判は覚悟の上と腹をと決めております。  粛 々